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第8回レポート
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第8回リーフレット

第8回 カフェ・デ・サイエンス


講師: 織田孝幸(おだ・たかゆき)、川原秀城(かわはら・ひでき)
日時: 2006年6月29日



数学カフェ 「東アジアの数学」 BACK NEXT

三井: 皆さん、こんばんは。今日は、専門家として、前回も来て下さいました織田さんと、東アジアの数学がご専門で、 文学部の教授でいらっしゃいますが、実は数学科のご出身という川原さんにも来て頂きました。 お二人には、先ず、自己紹介などを兼ねて、お話をして頂こうと思います。

織田: 織田でございます。前回と同じような話になるかもしれませんが、私が小学校2年生のときに、 父親が算数の本を買ってきてくれまして、そこに、たとえば、俵(たわら)を下から順に、10個、9個、8個、7個と積み上げていくと、 全部で何個になるかとか、最近、"数独"といって、電車の中でやっている人がいますが、"魔方陣"なんかもありました。 そういう問題を解いているうちに、数学が好きになりました。その本には、前回ご覧にいれた"メビウスの帯"もでていまして、自分で作ってみました。 本当は、中学校2年生の頃は、エンジニアになるつもりだったんですけども、数学のほうが面白くなって、大学で数学を研究することになりました。

今回のテーマは"東アジアの数学"ですが、先日、江戸東京博物館で寺子屋の展示がありました。 寺子屋というのは、明治の頃の調査だと、日本に16,000くらいあったそうです。16,000というのは、どれくらいの数かと言いますと、公立中学校が、 だいたい10,000くらいですから、中学校の数以上あったことになります。ところが、そこに書いてあった話では、本当はもっと多かったようです。 "筆子塚"というのがありまして、寺子屋の先生が亡くなられた後、そのお弟子さん達が、先生の徳を顕彰して塚を建てるのですが、 千葉県などには、それが非常にたくさんある。だから、本当は16,000の3倍くらいあったのではないかと。 そうすると、小学校の数と同じくらいあったことになります。

そうしたことに対して、幕末にやってきた外国人が、いろいろな感想を書いています。彼らは、日本の教育が非常に普及しているというのでビックリしています。 それが近代化の原動力になっているわけですけど、そのコメントで面白かったのは、「日本人は数学が好きな民族である」というところです。 もちろん、ソロバンでの商業計算などは必要ですけど、「実用でなくても数学が好きだ」と書いてあるのが印象的でした。 それが、どういうところから来ているのか。川原先生は、日本を含め、韓国や中国など、東アジアの数学のご専門なので、中世からあった、 そういう流れのようなものを、今日は、私も皆さんと一緒に勉強したいと思います。そういうことで、川原さんに来て頂きました。

川原: はじめまして。川原です。最初に自己紹介をさせて頂きます。私の出身高校というのは、実は、非常に有名でして、 (孫正義や)"ホリエモン"と同じ高校(久留米大学附設高等学校)です。彼は私の後輩にあたります。そこから、京都大学理学部に進みました。 そのときの興味は理系オンリーでして、数学科を卒業しました。数学科は卒業したのですが、実は、あまり数学を勉強しておりません。 その後、文学部の中国哲学史に編入学して、以来ずーっと漢文を読んでいます。だが数学が好きでたまらないみたいです。 何かと暇を見つけては、数学関係の本を読んでいます。4、5年前、東京大学へ赴任した後ですが、東京大学(大学院人文社会系研究科) に韓国朝鮮文化研究という専攻が新たに作られました。そのときに、朝鮮思想の担当教員として、(本務の)東アジア思想文化にくわえて、 講義を担当することになりました。今は中国思想と朝鮮思想の両方を兼任しております。専門は東アジアですが、正確に言えば、漢文屋です。 漢文以外は何も読まないという研究のかたちをとっています。

三井: 今回寄せて下さった質問の中に、「理系と文系にどうして分けるんだろう」とか、 「文系の人は数学ができないことを誇りにしているのはなぜか」というのがありました。 これについて、理系から文系に移られた川原さんが何か仰って下さるのではないかと思ったのですが。

川原: 私も文転した口ですので、文学部に入ったときには、いろいろ驚いたことがあります。 理系の分野では、基礎学力は、だいたい数学で測ることが多いと思います。生物系は別だと思いますが……。 私は数理科学系でしたので、数学が基礎学力を測るバロメータとして非常に重要なものだと思っておりました。 ところが、文学部に入りますと、とんでもないですね。そういう話は全然通じません。数学なんて話は出ません。 文科系では、語学力が、その人間の基礎学力を測る最も基本的なものだと、"彼ら"は考えているようです。 あっ、私は、今、文学部の人間でした。・・・と、"私達"は考えているようです。(笑)

三井: ご質問なさった方、納得なさいましたか。

>>>  文科系の方というのは、数学ができないことを、逆に、誇るところがあるのではないかと思っています。 会社では、特に偉い方というのは、数学が分からないほうが評価されて、そのほうがリーダーシップをとりやすいのかなという感じを受けています。

三井: 私には、先手を打っているという感じがします。先に、「数学はできない」と言ってしまうことで、 それを無視するというふうに出るのではないかなと思ったんですけども。

織田: ギリシャの時代でも、手を汚してやるようなことは、下賎な仕事だということがあったのではないかと思います。 ギリシャ人の発想では、計算をするとか、実験するとか、そういう汚れ仕事は、自分ではやらないわけですね。奴隷にやらせるのです。 自分は高いところに居て、意見だけを言う。現代でも、ブルーカラーよりホワイトカラーのほうが上だという意識がありますから、 同じようなことではないかと思います。

川原: 実は、数学科の卒業名簿と文学部の卒業名簿を見比べて、驚いたことが一つあります。 数学科の卒業名簿によれば、数学を続けている人は非常に少ない。それに対して、文学部で、たとえば、私のところですが、同じ仕事を続けている人は、 かなり多くて、8割近くおります。数学科の場合は1割くらいでしょうか。これはどういう訳だろうと、一時期、ボーッと考えたことがあります。 正しいかどうか分かりませんが、数学というのは、非常に抽象性の高い学問で、そこにはまり込んでいくと、 日常生活ができなくなるようなところがあるんじゃないでしょうか(笑)。従って、それをプラスに見る人はプラスに見るし、マイナスに見る人は、 数学をやると、ちょっと怖いなぁというんじゃないでしょうか。

三井: 文系とか理系とかと分けるのはどうかと思いますけれど、今日いらしている方は、どちらかというと、 理系の方が多いんじゃないでしょうか。私は、数学と言語というのとは、同じようなところがあるのではないかと思うんですね。 数学も数字を使う言語みたいになっていて、それで物事を考えるというような。

>>>  文系とか理系という言い方自体に、あまり意味がないと思っています。 僕は、数学は自然科学の分野ではなくて言語学の一つと考えるのが一番適当だと思います。 逆に、言語というのは、我々が普段考えていることとは違うような、もっと深い意味があるのかなとも思えてくるんですけどね。

三井: 確かに、言語と数学は、ある意味、同じようなものだという考えはあると思いますね。

織田: チョムスキーという有名な言語学者が、「言語の研究の一番近いところに数学がある」と言っていますが、 実際に、人間が頭の中で処理しているときは違うようです。これは、去年のカフェ・デ・サイエンスの講師だった酒井邦嘉先生に聞けば良く分かるんですけど、 頭の中には、数を専門に処理するモジュールと、言葉を専門に処理するモジュールが、それぞれ別にある。 ある時期まで、それは同じだと思われていたけれども、実験をしてみたら違うということが、だんだんはっきりしてきているそうです。

数学と言語の似ているところはすごくあるんです。だいたい数学の人は、「数学は自然科学の言語」というのを看板にしていますが、そういう意味では、 言葉には違いない。しかし、実際には、手と足くらいに違うのではないかという感じですね。

三井: "東アジアの数学"のほうに話を引っ張っていきたいと思います。 実は、今回のテーマとして、最初は和算を採り上げる予定でしたが、川原さんのご専門が中国や朝鮮・韓国の数学ということで、和算と非常に関係がある。 そこで、どういう関係があるのかとか、どのへんが違うのかについて、少しお話しして頂こうと思います。

川原: 私自身が漢文屋でして、専門としているところは、中国の数学、それから、朝鮮・韓国の数学でして、 和算のほうは(研究の周辺分野として)少し分析しているというところです。

東アジアの数学を全体としてみれば、歴史の重みのせいでしょうか、最初に突出したのは中国です。 かなり早い時期に、掛け算の"九九"や数字の記数法などが確立しています。 日本だけでなく、アジアの人達は非常に数学が好きなわけですが、その根幹には、"九九"というものの存在が非常に大きいと思っています。 計算の基礎を定める大変分かりやすい計算表とでもいうのでしょうか。これは中国の文化そのものです。

なぜ"九九"というのか。それは、表が「九九、八十一」から始まっていたからです。最初の二字で全体の意味を説明するのが当時の説明法。 論語の"学而篇"というのも、最初の2字「学而」を篇名としています。

後漢の頃、西暦百年くらいのとき、東アジアの数学の基本的な形式が定まりました。それを記した書物が『九章算術』です。 九章から成っています。この本の特徴は、先ず、問題集形式になっていることです。ここには年配の方も多くいらっしゃるので、 ソロバンをご存知の方も多いと思いますが、ソロバンの練習は、全部、問題中心でしたよね。問題集形式でやるというのは、実は、『九章算術』が定めた形式です。

『九章算術』で計算をするとき使っていたのは"算木(さんぎ)"というものです。中国的な言い方では"算籌(サンチュウ)"といいます。 マッチ棒より、もう少し長い木や竹の棒のことですが、そういうものを並べて計算していました。『九章算術』は"器具代数"とでもいうようなかたちで、 数学書を編んでいたわけです。

この本の二つ目の特徴は、"言語代数"だったということです。計算法、つまり、アルゴリズムが言葉で書かれておりました。 今日のプログラミングのようなものを言葉で書く。それを"言語代数"と言います。

『九章算術』を中心とした数学はだいたい唐代ごろまで続きました。それを集大成したのが『算経十書』といわれる書物でして、唐代に編まれました。 それが朝鮮や日本に伝わって影響を与えました。

『九章算術』を中心とした数学は、今から一千年程前の宋・元の頃に大きく飛躍しました。 当時の驚くべき発見の一つに、高次方程式の解法(ホーナー法と酷似)などがあります。また"天元術"というものが発見されて、 未知数を x で表すような数学が展開し始めました。これは"記号代数"の一つ前の段階で、"略語代数"と表現すると便利であろうと思います。 今日の我々は、既知数も記号化して ax + b などと書きますね。天元術においては、 a、b というのは具体的な数字でした。 つまり、"記号代数"に非常に近いレベルにまで行ったわけです。


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