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第11回レポート
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第11回リーフレット

第11回 カフェ・デ・サイエンス


講師: 織田孝幸(おだ・たかゆき)
      新井仁之(あらい・ひとし)
日時: 2006年11月8日



数学カフェ 「無限を極める」 BACK NEXT

三井:納得を強要されたような気がしませんか。

織田:無限のものについて、個数をどのように意味づけるかということになりますが、個数には意味がないわけです。 有限だったら数えられますね。無限だったら、無限の集合はあっても、実数が並んでいる無限と自然数の無限とが区別できなくなってしまいます。 そこで、二つの無限集合を考えるとき、それが1対1に対応していたら、同じ個数だけあると定義するわけです。 そう考えると、割と理屈が通って、話が展開できるということが、きちんと築かれたということです。

三井:定義というのは、数学者が皆、それで納得すれば良いわけですか。

新井:納得すると言うか、論理を組み立てていくときに、矛盾が起きなければいいわけです。 先程の無限個の壷の中から金貨を取り出せるかどうかという問題では、取れると仮定しても矛盾は起きないし、取れないと仮定しても矛盾はおきないという、 数学用語を使うと、「選択公理の独立性」といって、それを証明してフィールズ賞をとった人がいます(Paul Joseph Cohen, 1934-)。どちらの立場を取るかというのは、皆さん次第ということになるわけです。

織田:どちらを取るかで、別の数学になってしまう。それは、人生の分かれ目みたいなもので、 選択公理をやる数学とやらない数学とがあるわけです。どちらがいいかと言うと、両方やって良いわけです。それで、矛盾さえ起きなければ大丈夫なんです。 要するに、どちらの数学が、あなたにとって必要な問題の役に立つかという、それだけの話です。

三井:一人の人間が、あるときはこっちを使い、あるときはあっちを考えるということでよろしいんですか。

新井:それで、矛盾をきたさなければいいんです。今、無限個の壷から金貨を取り出すことができると仮定したとき、 どのような結論が得られるかというと、それに関連して例えば、バナッハ・タルスキー(Banach-Tarski)のパラドックスというのがあります。 それは、リンゴを適当に分解して、それを再度組み立てると、工夫すれば、地球と同じ大きさのものに組み立てることができるというものです。 そんなことはあり得ないことですが、起こってしまうわけです。 ところが、無限個の壷から金貨を取り出すことができるということを、ほとんどの数学者は仮定しています。織田先生も仮定していると思いますが・・・。

織田:それがないと仕事ができないから。ときどき、選択公理を少し疑ってみたりする人がいますが、気取っているだけです。

新井:例えば、図形を分解して組み立てたときに、面積が倍になってしまったとすると、足し算がおかしくなりますね。 それが起こってしまうというのは、どこに問題があるのか。分解したときに、変な形のピースができるわけですが、その面積が測れないということなんですね。 もしも全部の図形に対して、夫々の面積を測ることができれば、分解して組み立てても同じ面積になりますから、 コインが東京ドームの大きさになるわけは絶対にありませんね。

一方、無限個の壷から金貨を取り出せないと仮定すると、少しごまかして言いますが、 全ての図形の面積を測ることができるという結論が出せるような論理体系をつくることができます。専門家から見ると少し正確さを欠いた表現ですが、 ある意味で矛盾しないような論理体系というのは、いくつもあるんですね。この場合は、バナッハ・タルスキーのパラドックスは起こりません。 しかしそうすると、こんどは数学のいろんな定理が成り立たなくなってしまう。だから、数学は、真理が唯一で、それをやっているかというと、 そうでもなくて、そのへんが非常に曖昧で・・・。

三井:やっと、本音が出てきたと思うんですけど・・・。

>>>数えるというのは、一体どういうことなのかという疑問があります。私が数えたのと隣の人が数えたのが、 なぜ同じになるのか。数えるということに客観性があるのか。主観的なものなのか。また、そういうふうに考えることは間違いなのか。どうなんでしょう。

>>>大学で単位を取るということは、自分の疑問を捨てることで、先生の言うとおりにしないと、単位はもらえない・・・(笑)。

数えるというのは、アナログではなくて、デジタルで考えていくわけですよね。実際には、AD変換すると、デジタル化されたものは、 もとのアナログとは違うわけです。面積というのは、必ずしもデジタルのようではないわけで、それを数えると言ってしまうと、ごまかされたような気がします。 だから、単位がとれたということなんだと思うんですけど・・・。

>>>量を計測する概念と、1個ずつ数えるという概念とは違うという意味のことを仰っているわけですね。 例えば、宇宙に星が何個あるかを数えようとしても、無限にあって夜も眠れなくなるというふうに考えるのではなくて、 何光年進んだら1個あるという密度とか濃度という考え方をとれば、星が何個あるかを、一生かかって議論する必要はないという捉え方もあるということですね。

織田:今、宇宙にある星を数えると言われましたけれども、星が一つあるというのは、どういう意味なのか。 月は一つの星で、1個と数えますね。小惑星も小さいけど1個と数えますね。小惑星から離れたところにある岩も一個と数えます。 そうすると、何を1個と数えるかという問題があるんです。一つ二つという数え方には、抽象化が入っているわけです。 リンゴが1個あると言うとき、リンゴの大きさも虫が食っていても、それらは無視して1個と数えているわけです。 ここには三十何人いると数えますけど、その一人一人は違うわけです。それを、同じ一人と数えている。頭の中で、いろんな性質を捨てて数えている。 そういうことをやらないと数えるということはできない。最初の一回目にお話したんですが、そういう数は、人間の頭の中にしかない。 先程、客観的に存在するかと言われたけど、それがないと、兄弟の間でお菓子を分けられない(笑)。 3人兄弟で9個のお菓子があったら、お菓子の形が多少違っていても、3個ずつ分けます。そういうわけで、人間が生きていくためには、どうしても必要なわけです。

ギリシャの発想だと、こうしたデジタルな数は、普通の意味で、数と言っている。AD変換でいうアナログの数というのは量ですから、 伝統的には別の意味。量というのは実数です。数というのは自然数です。今の算数は、別扱いだった数と量を混用して、 ある意味では、自然数を実数と見なしていることがあるんですね。0.99999・・・が1になるというとき、1は自然数ですよね。 その辺りにごまかしがある。1を実数として考えると、1.0000・・・になりますよ。0が無限に続くから、そんなに不自然だとは思えなくなってくる。

>>>アインシュタインは、先程、新井先生が仰った数学の二つの道のうち、どちらの考え方をとったのでしょうか。

新井:アインシュタインの相対性理論は、おそらく、選択公理を仮定していないのではないかと思います。 つまり、それに係わらない部分で数学をやっているのではないかと思うんですね。数学には、どの論理体系でも正しい共通部分というのがあって、 無限を扱うところだけが枝分かれしていて、根幹は共通しています。かなりの数学の部分がその共通部分に入っていると思います。

>>> 無限の話で、アキレスは亀を追い越せないという有名な話がありますよね。また、コップを上から落としても、 絶対に割れないという話もあります。実際には、アキレスは亀を追い越せるし、コップは割れる。無限と言いいながらも、それは有限の中の無限なのか、 それとも本当の無限なのか。その辺りが何となくモヤモヤとしているんですけども・・・。

三井:なんとなく、ルベーグ積分に近づいて来たように思うんですが・・・。

新井:アキレスと亀の話に近いと思いますが、ここに絵を持って来ました。 これはオランダの版画家であるエッシャーの描いた「円の極限T」という絵ですが、0.99999・・・が1になるという一つの答を含んでいるように思われます。 これは、実は織田先生のご専門で、数学用語で言うと、ポアンカレ・ディスクといわれている負曲率が -1の2次元定負曲率多様体の一つです。

長さが1の棒を円の真ん中に置いて、それをどんどん円の境界に持って行くと、円の中にいる人にとっては長さは変わらず1 ですが、円を上から見ている人にとっては、長さがどんどん縮んでいくように見えることを示しています。円の中に住んでいる人にとっては、 この円が宇宙で、この外には出ることができません。この絵には鳥のような形がありますが、円の中に住んでいる人にとっては、その大きさは全て同じです。 この空間は、ゆがんでいて、円の外にいる私たちはそのゆがみを見ることができ、境界にいくと、鳥がだんだん小さくなって、 最後には潰れてゼロになってしまうことがわかるのです。

仮にその中にいる生物が円周を極めようと思って歩いていくと、自分自身がだんだん小さくなっていきますから、無限の時間がかからないと、 円周に到達できないんですね。0.99999・・・が1にならないと思う人は、その円の中に住んでいる人です。円の外に出て上から見ると、 最終的には円周に着くので、そこが0.99999・・・の行き着く先である1だろうと分かるわけです。だから、0.99999・・・ が1になることを理解できない人は、その円の中に住んでいる人で、1になることを理解できる人は、円の外に出られた人なんですね。

1=0.99999・・・というのは、数学的に収束という概念を使って証明できます。ただし、それが理解できるかどうかということは、 一般に無限大・無限小が理解できるかどうかということになるのですが、ある意味で、無限ということが悟れるかどうかということじゃないかと思います(笑)。 悟ることができたら、数学科を卒業できますし、悟ることができなければ、卒業は難しいかなと。 先程、単位の話が出ましたけども、本当に悟れたという人は大したものなんですが、単位が欲しければ、無限を悟れましたと言えばよいわけです。 それは冗談ですが、1=0.99999・・・というのはそういうことです。

無限大というのも、実は、その円の中と同じで、1+2+3+4+・・・と100までいっても、100万までいっても有限ですけども、無限までいくと、 無限になってしまうと。無限大という記号(∞)がありますが、あれは、円周の点なのです。

三井:中にいる人でも、円周の傍まで行けば、円周は見えるのではありませんか。

新井:中にいる人には、円周までに無限の距離がありますから、見えないんですね。外に出ないと見えないんです。


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Last modified 2006.12.19 Copyright(c)2005 The Takeda Foundation. The Official Web Site of The Takeda Foundation.