The Takeda Award 理事長メッセージ 受賞者 選考理由書 授賞式 武田賞フォーラム
2002
受賞者
講演録
中村修二
page 1
page 2
page 3
page 4
page 5
Q&A






中村修二
 
back next
中村です。このたびはどうもありがとうございます。私も資料を用意していたのですが、赤崎先生と天野先生が同じような話をなさるので資料なしでやってくれということなので、資料なしでやります。

私の場合は、企業研究者です。天野先生と赤崎先生は大学で研究されておりますけれども、私の場合は企業です。私がどういうふうにしてこの発光ダイオード(LED) をやるようになったかについてお話しします。

私は、出身が徳島大学です。徳島大学の修士課程を卒業しました。電子工学科卒業なのですが、卒業したら大手企業に行くのが夢でした。これは日本の大学生みんな共通です。大手企業へ行くのが夢なんです。大手企業に行けば永遠のサラリーマンなのですがど、私の場合はその永遠のサラリーマンになるところが、縁がありまして、どうしても徳島に残ることになったわけです。これはプライベートなことなのですが。

徳島に残るということになれば、専門の電子工学を活かせるような会社はありません。徳島なんてド田舎の県ですから。担当の教授に「徳島でどこか紹介してくれ」と言ったら、日亜工業株式会社というのを紹介してくれたのです。日亜化学工業というのはですね、何を作っていたかといいますと、蛍光体です。蛍光体という粉を作る化学会社です。その時に担当教授だった多田先生が、「あんた、そこに行ったら仕事捨てたと思え。あんたみたいな電子工学は活かせんよ、化学会社だから。家庭だけを考えて仕事しなさい」って言うのです。

それで、まあそういうつもりで会社に入りました。日亜化学というのは当時、従業員が180名くらいで、年間の売り上げが20、30億円です。で、全部蛍光体です。それで、私の所属は、開発課になりました。開発課っていったって、田舎の中小企業ですから、課長がいて、部下が二人いるようなそんな会社です。そこで偶然私が入ったら、やらされた研究テーマがガリウムリン(GaP)という半導体の結晶成長です。これは、昔からある緑色とか黄緑色のLEDに使う結晶です。これでLEDの世界に入るようになったのです。私ですね、この時超ラッキーだと思ったのです。私は大学時代、半導体が好きでしたから。「会社に入ったら仕事を捨てたと思え」と担当教授に言われていたものですから。「超ラッキー」って思ったのです。
会社はいつつぶれるかわからない会社なんですよ。前年レイオフがあって、たとえば鉛筆一本買うのに課長のサインがいるような、そんな時代でした。「こんな会社なんていつつぶれるかわからん」と思いました。ただし、この研究テーマがGaPという半導体の結晶成長だったのは超ラッキーだった。で、これを任されて、結局一人でやるのですけが、もう金がない、もう何にもないのです。ともかくやれということですね。それで必死になってGaPの結晶成長をやったわけです。

当時は、水平ブリッジマン法といいまして、透明石英の中に原料を入れてやるのですが、これをやるために、朝から晩まで透明石英管の溶接をやっていました。大学と違いまして、製品を作らなければならないのです。企業は製品作りです。私も最初は本を読むのが好きでしたが、本を読んでいたら全然進まないのです。一人でやってますから。上は「早く製品作れ!」です。だからもう朝から晩まで溶接なんですね。溶接して、原料仕込んで、炉に入れてドッカンドッカン爆発しながらやってきたわけです。これは、田舎でやったからGaPの結晶が成長できたんですね。これを都会でドッカンとやれば即操業ストップですね。

これを、入社して5年ぐらいほど、3年間GaPをやって、次にガリウム砒素(GaAs)をやるのですが、このGaAsの時も溶接ばっかりです、入社して5〜6年間は朝から晩まで溶接ばっかり。溶接屋ですよ。現在のような私は想像できませんでした。「自分の人生はこれで終わった」と当時は思っていました。溶接屋で一生終わると思っていた。ところがまあどういうわけかこんなになりましたけどね。


 
back next
講演録トップへ

武田賞フォーラムトップへ

武田賞TOPへ