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第29回レポート
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第29回リーフレット

第29回 カフェ・デ・サイエンス


講師:  大島泰郎(おおしま・たいろう)
ゲスト講師:  会田薫子(あいた・かおるこ)
  水谷広(みずたに・ひろし)
日時:  2010年5月31日



異端児のみる生命「生命倫理」 BACK NEXT

三井: 皆様、ようこそおいでくださいました.この会は、「異端児のみる生命」というタイトルで、これまで17回やってきましたが、今回の「生命倫理」というテーマは、その中でも異質と言うか、なかなか手強いと思っています.

今日のゲスト講師として来ていただいたのは、水谷広さんと会田薫子さんです.そして、いつもホスト講師をお願いしている大島泰郎さんです.

お三方には、この後、それぞれ10分程度のお話をしていただきますが、その前に、少し前置きをさせていただきます.

皆様が参加申込みをされたときに書いてくださった疑問・質問・コメントなどを拝見しますと、大雑把に3つに分けられると思います.先ず、生命とは何かと問われた方が3分の1くらいありました.それから、生命の意味あるいは人間存在の意味といったものを知りたいと書かれた方もあります.さすがに、倫理問題に関したものはたくさんありました.その中には、当然、脳死や尊厳死などの問題が入りますが、人間の話だけでなく、生命全体についても話題になると思います.他にも、倫理は何を基準にして決めるのかというご質問や、日本だけではなく、世界ではどうなっているかということを考えなければいけないと書かれた方がいらっしゃいました.

このような質問や疑問の全てにお答えできるかどうか分かりませんが、最初に専門家のお三方にお話していただいた後で、10分程度のお休みをとり、その後8時半まで、なるべく大勢の方に自由に意見を述べて頂きたいと思います.

では、最初に、水谷さんから、誘い水になるようなお話をしていただきます.

水谷: 今回は、生命倫理が主なテーマになっていますが、私の専門は環境倫理です.環境倫理というと、通常は、生物多様性の問題のように、人間以外の生物に対する配慮が問題になりますが、さらには、将来の世代のことを、人間はどう考えていくかという問題も含まれます.

最近では、地球温暖化の問題が逼迫してきましたので、その方面の環境倫理が大きな問題になりつつあります.地球の温暖化というのは、人間が二酸化炭素を排出した結果、地球の環境を変えているということで、まだ議論はありますが、そのように考えられているわけです.私が学生の頃は、大気中に二酸化炭素が増えてきているというのが分かってきた頃だったのですが、その当時の議論は、本当に増えているのだろうか、その原因は何だろうかということでした.人間が大気のような地球の基本的なものを変えることができるなどとは考えも及ばなかったのです.それが、この10年余りで、地球に関するいろいろなモデルのシミュレーションができるようになってくると、人間のやっていること自体が環境に非常に大きな影響力をもち、それが温暖化のようなことに繋がってきているということが分かってきたわけです.

そうすると、今度は、何らかの方法で地球の環境を変えていくこともできるのではないかということになります.地球の環境が変わって、暑くなって、住み難くなっている.それがなかなか止まらない.今までは、意図したわけではないのに変わってしまった.その例が、大気中の二酸化炭素濃度でした.しかし、今度は自分たちの意志で変えてしまおう.我々は、それを変える技術力を持っている.実際に、イギリス、アメリカ、中国など、二酸化炭素をたくさん排出している国々などは、太陽の熱や明るさが暑さの原因になっているのだから、地球の軌道を太陽から少し離してしまおうとか、太陽を少し暗めにしようというようなことを、去年あたりから、手っ取り早い方法として、熱心に考え始めているのです.

三井: そういうことをするのに、ものすごいエネルギーを使ってしまうのではありませんか.

水谷: 鳩山さんの「二酸化炭素を25パーセント削減する」という提案で、いろいろなオプションを並べて、そのコストを計算していますが、それらよりも一桁くらい安く、またエネルギーも少なくて済むという概算結果が出ています.だからこそ、中国やアメリカが飛びつくわけです.しかし、発展途上国などの人たちにとって、それが良いことなのか悪いことなのか.アメリカや中国が勝手にやってしまうような恐れもある.それが正に倫理の問題になってきているのではないかと思います.

このように、人間の技術力が高まった結果、自分たちがやれることの幅が大きく広がっています.そこから何をどう選ぶかというのが環境倫理の問題になります.それと同じようなことが、生命倫理の問題にもあるのだと思います.私の父親も生命維持の処置を受けました.それを見て、医療の可能性が広がったとは言え、まだ中途半端だと思いました.可能性の広がった中で何を選択するか.そこにある人間の迷いのようなものが倫理の問題になってくるのだと思います.

科学技術が発展するこの時代、環境も生命も選択幅が大きく広がり、それゆえに難しい選択をしなければならなくなりました.そういった意味でも、このサイエンス・カフェで、「倫理」をテーマにするのは時宜に叶っていると思います.会田先生に繋ぐ私の話としてはこのようなことで終わらせていただきますが、皆さんから、いろいろなご意見を伺えればと思っています.

三井: 申し込み時に書かれたご意見の中にも、倫理は誰が決めるのか、倫理などというものはそもそも人間のエゴではないか、というのがありました.では、次に会田さんにお願いします.

会田: 技術が発達して、できることが増えたけれども、我々は何をどうやって選んだら良いのだろうと水谷先生はおっしゃいました.生命の問題も正にそうです.たくさんある選択肢の中から、そしてどんどん増える選択肢の中から、良いものとそうでないものを誰がどうやって選ぶのか.そうした問題が非常に増えてきました.それが、生命倫理という学問が確立されていくなかで、重大な課題となってきたのです.

生命倫理が学問大系として確立されてから、まだそれ程の時間は経っていません.1970年代の初め頃に、アメリカで"bioethics"という学問が確立されました.日本には1980年代に本格的に輸入されましたが、いまだに輸入学問の翻訳学習状態といったところです.ところが、これを勉強していくうちに、アングロ・サクソン系のアメリカ人男性が考えた倫理原則の中には、日本人に合わないところがあるということが分かってきました.そのために、今、私たちに合った生命倫理を学問大系として作っていく作業が急務とされているわけです.

生命倫理の問題は、命の始めの問題群、命の終わりの問題群、その他の問題群というように、大きく3つに分けられます.私は、命の終わりの問題群について、日本ではどういう基準で、どう考えていくのかということを、現場を調べながら考えていくという仕事をしています.現場というのは、医療福祉の方たちが働く現場のことですが、彼らが直面している問題を集めて概念化し、それを構造化して、日本における問題の解決策を日本の中で考えています.

私が取り組んでいる問題の筆頭は、延命医療の問題です.割と遠くない過去まで、死ぬということは、例えば、西部劇で撃たれて死ぬとか、時代劇で切られて死ぬとか、目で見ても分かりやすいことでした.畳の上で死ぬときも、脈がとれないとか、息をしていないとか、心臓が動いていない、というのを見て、「ご臨終です」と医師が言う.しかし、技術が発達した結果、死を定義するということは非常に困難な状態になってきています.このような状態は、医学的にも法律的にも社会的にも、いろいろな問題を生むことになっています.

その代表は、やはり、脳死の問題だと思います.脳死という状態は、1950年代に人工呼吸器が使われるようになったとき、初めて出てきました.人工呼吸器は、脳の機能が失われた後でも、心臓と肺をしばらくの間は動かしておくことができる器械ですから、これを使って心臓を動かしている患者は、当時の医師から見ると、死んでいるとしか思われませんでした.フランスの医師たちが1950年代に報告した脳死についての最初の論文には、「これは神の御業であると同時に、悪魔の仕業である」と書かれています.当時の医師が脳死の人をどう見ていたかというのがよく分かります.

欧米の医師たちは、この状況を何とかしなければいけないと考えました.そして、1960年代に、ハーバード大学の研究グループが、この状態にある患者は死んでいるとみなすという提案をしたのです.それが受け入れられ、1980年にアメリカでは連邦法になりました.つまり、人の死は心肺機能が失われた時、あるいは、脳機能が失われた時、そのいずれかがご臨終の時という社会的な約束をしたのです.この考えは、臓器移植の発達と共にすっかり定着しました.脳死の状態で臓器を提供してもらうことは、移植にとって都合の良いことでしたから、おおむね一石二鳥だったわけです.

1950年代から1980年代くらいまでは、人工呼吸器を付けても、心肺は数日しか動きませんでした.しかし、技術が発達した今では、大人でも、投薬などを管理すれば、3週間や4週間、あるいは月単位でも、心肺は動いていることがあります.子どもの場合では、親が子どもの死を受け入れられないという状態であれば、現場の医師は、頑張って、2ヶ月、3ヶ月、半年、あるいは1年も動かすという例があるのです.そうなると、脳死という状態を死んでいる状態とみなして本当によいのかという話になってきます.


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