The Takeda Award 理事長メッセージ 受賞者 選考理由書 授賞式 武田賞フォーラム
2002
受賞者
講演録
天野 浩
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Q&A






天野 浩
 
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<質疑応答>

質問1:
ご受賞本当におめでとうございます。ぜひとも21世紀の最初のイノベーションを達成していただきたいと思いますが、紫外線の方向にもう少しアルミを入れていくという方向は、間違いなくできるだろうと私も思います。

次のチャレンジとして、もう一つお聞きしたいのは、電子デバイスです。当然ガリウムナイトライド、窒化ガリウムは、耐圧がすごく高いですから、まずはパワートランジスタとして向いているだろうなと誰でも思うと思います。ところが、産業界は、今まで経路依存性によってSiCに資源を集中的に配分していて、なかなか窒化ガリウムの産業は生まれないし、まして高周波の方は、そもそも市場がないので、産業は全然生まれない多分アメリカは非常に強力に後押ししていますから、このままではアメリカに負けます。その辺のこと、それから、国はどんなサポートの仕方をすればいいかということを、いわゆる現場の研究者としてお教えいただければと思います。

天野:
私は、そんな大それたことを言える立場にないんですけれど、まず、ナイトライドのこの青色に関して言えば、国からの援助を期待するよりは、野に下って頑張った方が絶対元気が出るし、新しい成果もどんどん生まれるような気がします。
だからといって、国の援助が要らないというわけではありませんが。それから、高周波に関しては、例えば、私は、家でパソコンとかをやっていますが、無線については、非常に良くなってきてはいますが、例えば、動画とかを送ろうとすると、今のADSLでも、コマ送りの絵しかできないですよね。12メガだったかな。そのスピードはやっぱり、最低でも10倍とか100倍とかに上げなきゃいけない。そうしますと、周波数も高くしなければいけないし、もっと基地局をたくさん作らなければいけない。そういう時代が必ず来ると思います。その時に、どのような材料が良いかということですけれども、ガリウムナイトライドはその第一候補になると思います。

質問2:
お話しを聞いていますと、非常に若い頃に、相当にチャレンジングなテーマを与えられて、それを苦労しながら、長い間やってついに花が開いたということが言えると思いますが、もし、今ここに、非常に若い、意欲的な研究者がいて、何か非常にチャレンジングがテーマ、10年、20年、30年後に開くだろうというテーマを与えるとしたら、どんなようなものがあるか、一つ二つ例を挙げてお聞かせ願えればと思います。

天野:
それは、私がむしろお聞きしたいことですね。すぐには思いつかないんです。私もちょっと年を取ってきて、研究室に学生が来るようになりまして、研究室の学生に、私が味わったのと同じような感激を味わわせたいと思ってはいるんです。そのために一番大切なのは研究テーマだと思いますが、具体的には、どういったことがあるのか。考えればたくさんあると思いますけれど、一番大切なのは、多くの人がこれは大切だよと思うようなテーマで、なおかつ、実現が難しいというテーマがそれに当たるんじゃないかなと思います。すみません、具体的には思いつかなくて申し訳ないんですが。

質問3:
今日はおめでとうございます。研究室の学生の指導というのはなかなか難しく、マスター位の学生ですと、ほったらかしておくととんでもないことをやって装置を壊したりするし、かといって、あんまり細かにあれやれこれやれと言うと、嫌がられるんですね。そこらへん赤崎先生がどうだったかなあということを、差し支えない範囲でお話しいただけたらと思います。(天野:それは赤崎先生に対することでしょうか?)いえ、学生としての立場から、どんな風にやっていただいたのが良かったのかとかですね、そこらへんをお話しいただければと思います。

天野:
はい、分かりました。それでは、私が学生の頃ということで。多分私は赤崎研究室の中で、一番できの悪い学生だったものですから、今でも、赤崎研究室のお世話になっているわけです。まず、仕組みがしっかりしてまして、あれやってこれやってということは、赤崎先生はおっしゃらない。ですけれど、評価はちゃんとしてくださる。例えば、私にとっては、研究の成果を発表する場というのは、研究発表会で、いろいろなことを考えて、いろいろなことを報告するわけですね、その時に、その時その時で適切な判断をしてくださる。ということで、まず自主性を重んじるということと、適切な判断をして下さるということが私にとっては非常にありがたかったと思います。

司会(垂井):
では赤崎先生にもお願いします。

赤崎:
とんでもないことが回ってきまして、どう答えればいいかわかりませんが、今の質問に直接答えになるかどうかわかりませんけれども、実は、先ほど、天野君が'82年に私の研究室に来たということをご本人がおっしゃっていましたけれど、卒業は'83年なんですね。ということは、彼は4年になったとたんに、まだ公式にはたしか募集してなかったと思うんですが、ある日私の部屋に飛び込んできまして、私に絶対これをやらせてくださいというのです。実は、研究室に入れる数に制限がありまして、私の所はその後ですね、名古屋大学の中で一番学生の多い研究室の一つになりましたけれども、ともかく天野君が来たときのことで、私の頭に残っておりますのは、真っ先に飛び込んできた学生だったということです。公式にやる前にですね、くじ引きになるものですから、それを多分彼は避けようと思って、あらかじめ席を一つ確保したかったんだろうと思うんですが、それ位非常に意欲的でした。私はそれをよく「のめり込む」と表現をしていたんですが、そういう学生がいてくれることがやっぱり研究室が活気づくんじゃないか、というふうに思います。

私は、アメリカの人と話しているときに、その人の考えとして言われたことなんですけれども、何らかのグループというものがあって、そこで、何か仕事をする場合に、あんまり細かいことを言うよりも、方針をしっかりしていれば、自分の後ろ姿を見せるという格好でいる方が良い、というように聞いたことがあります。それが今のお答えになっているかどうかよくわかりません。

司会(垂井):
私が余計なことを言ってもいけないんですけれども、私が、このテーマを勉強しましたところでは、赤崎先生の粘り強さ。で、ガイドラインがしっかりしていたんでしょうね。天野先生の先程のお話しにもありましたように、バッファー層であるとか、電子ビームでp型変換とかをやっているときのお話もありましたが、非常に重要なところをやられた。それで、この表彰は2人であるべきだということになったわけです。そういうわけで、粘り強さとガイドラインが良かった、そこで、さっきのご質問にもあったような、とんでもないことをやらないで、非常にいいことをやった、という結果になったんじゃないかと思います。他にはご質問はございませんか。それでは時間もほぼまいりましたので、次にまいりたいと思います。どうも天野先生ありがとうございました。



 
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