吉川先生と西村先生を囲んでの全体座談会
1.Disciplineの価値評価
2.賞賛の意味
3.目に見えないものの評価
4.生活者の欲する空間
5.本来の工学
6.第二種基礎研究の例
7.公的資金と私的資金
8.現実に富を作るのは企業
9.第二種基礎研究は民にもある
10.目標設定が重要
11.第二種基礎研究には方法論の構築が必要


back next
7.公的資金と私的資金

(羽田野) 
大変幅広いお話が出ているのであれなのですが、先生の御立場で今、公的な機関で研究されていまして、それには公的な資金が入っているわけですね。こういうところに入ってきたところでの研究というのはどうあるべきかというお話のように聞いていたのですが。

(吉川) 
そうですね。基礎研究という分野です。

(羽田野) 
公的資金をどこから入れるかという議論をおまとめになったというのが今回の第1種、第二種、企業における開発研究ということなのでしょうか。

(吉川) 
ちょっと私の話し方は確かに今のご指摘のように、混乱をちょっと招く話し方でしたが、たまたま公的機関でやっている話と、今の社会と公的機関で研究する科学者コミュニティというものの間が契約という話をしたと、こうなっているのですね。研究者のサイドからすると、そこは企業の中にいる研究者だってそれは同じモチベーションで研究する人はいるわけですから、それは本質的にこういう夢と悪夢と現実というのが、企業の中でもたくさんあるわけです。私的資金でもそれは構いません。同じことが起きると思います。

(羽田野) 
私がそこで感じたことは、私的な資金の場合のリスクというのは、基本的に限られていると思います。それが公的な資金ということになると、さっき言ったアカウンタビリティであるとか、いろいろな何と言うのでしょうか、きちんとしたかたちを入れようとするのかなと。

(吉川) 
ですからそれはさっきも少し申し上げたのだけれども、昔の公的資金というのは、いわば大学を運営していけばいいのだという…。その中で、自分で使っていたという、そういうイメージがあるのですが、今は変わってしまったのです。そうではなくて、いくらいくら出したと。それに対する成果は何かと。今、評価システムというのはどんどんどんどん拡大していて、そして先ほど申し上げたように、第二次科学技術基本計画は評価され、そして第三次にいけるかどうかが決まるのです。ところが評価システムというのは、また公的な機関が評価するのです。そういった意味では、社会全体が私企業のようになっているわけですよ。社会が儲からなければこれはやめようと、そういう意思決定の仕組みが出てきてしまったわけです。ですから、公的資金というのもやはり利益を、人類の利益を追求しているわけで、それをミニマイズすれば、それは企業の利益主義、それは同じことなったと、連続体になっているのではないかという感じです。

(羽田野) 
であると、とてもいいと思うのですけれども、外国型と言うのでしょうか、そういうところと比べてみるとどんなことになるのでしょうか。

(吉川) 
外国もうまくいっていないのだと思います。例えばアメリカは公的資金というのはかなりフリーに配りますよね。ところがヨーロッパははっきりシナリオ・ドリブンというか、こういう社会をつくりたいのだということで、例えば研究費は企業と大学が共同研究で組まなければ出さないとかね、非常にマネージングの力が強い研究費の出し方をします。それではヨーロッパのほうはどんどんどんどん機能が起こっているかというと、そんなことはないのでね。彼らも非常に悩んでいるのです。ただ投入しなければいけないということは確かで、それはアメリカもヨーロッパも同じですよ。むしろわれわれがそういう意味では、優等生なのかなという気もするのは、科学技術基本法というのをつくって、基本計画をつくって、実社会の緩急を読みながら、たまたま日本というのは大変素晴らしい製造業っていう、そういうインダストリーを持っていましたから、そことの連結をつくるということで、ある種の社会的な再契約の実現を図れるような体制が今、できつつあるのですね。その中に今申し上げたように、評価システムがどんどん出てきていますから、いい面を見れば、大変よくデザインされています。ただ再び日本型の非効率が評価についてバンバン起こっているのが私は気になるのだけれども、いずれにしてもデザインのプリンシプルが日本にはあるのです。それがヨーロッパ、アメリカよりも進んでいるのではないかと思います。

(羽田野) 
変化が社会にどう反映していくかという、そういう尺度はどうなのでしょう。

(吉川) 
それはまだ日本は後発です。明らかに後発です。

(羽田野) 
そうすると、武田賞的な生活者のという発想が、外からそういうものを見ていくというのは、私は非常にいいと思うのです。

(吉川) 
そうですね。ですから本当は、最後は一人一人の人間がどういうベネフィットを受けるか、だけではかるべきなのですね。これは国家でもなく、そんなものではないのです。やはり人類全体ということに最後はなるわけで、とりあえず日本の中では日本人全体ということになるわけです。それは少なくともそう言わなければいけないわけです。そこに私企業というのはどういうふうに存在するかということは、非常に大きな問題で、そういう意味では企業も変わってきたのではないですか。やはり一種の契約履行の中のサイクルの中に存在している。企業しか富をつくる装置は社会にはありません。論文なんていくら出したって、誰も豊かになりませんよ。それを使って、製品にするとか、いろいろなことをやるから富になるのです。ですから、当然、さっきのループの中に企業というのは、ものすごい大きな存在をしているわけですね。そこがうまくつながっていないということは、問題だと思います。いったん企業に行けば、企業はかなりそういう富をつくるということについては、いちばん進んでいる部分なのかもしれません。

(赤城) 
第二次基礎研究というのは、そのあたりの関係を明らかにすることになるのですね。

(吉川) 
そうですね。これを鈴木先生の言葉で言えば方法論ですよね。第二種基礎研究の方法論というものが、未確定なので、これを明らかにすることによって、そこが詰まっていると思うのね、こういう社会と富について、資金は来るようになった。こっちから研究論文までは行くのだけれども、そこから先は細くなってしまっているでしょう。そこを太くするにはどうするのでしょうか。そこのアクティビティを、それに参加する人間も、参加する人の行う行動の効率もあげなければいけません。効率をあげるのは、実は方法論の進歩であり、社会的認知というのはそこへ参加する人が増えてくるということです。ですから、いろいろなそういうポリシーをやりながら、そこを太くしていくというのが、今の本当は科学技術政策になるはずなのです。第二次基礎研究を産総研でやるというのも、そのポリシーの1つとして言っているわけなのですね。

(赤城) 
その時にやはり何をやるかという具体的なものというか、そういうのが非常に大事な気がします。というのは、受け入れられるように、もうしばらくしたらなるか、3年経ったらなるか、10年経ったらなるか、20年経ったらなるかで、3年ぐらいがいいのではないかと。20年先の第二次基礎研究でやると、相当やはり悪夢が長く続くことになるのではないかと思うのですけれども。

(吉川) 
ですからそれはちょっと申し上げたのだけれども、受け手の行動観にもよるのですよ。例えば最近よく言われるわけですね。科振費の半分はバイオにいっている。そのうちの8割はアメリカの装置を買っているわけでしょう。これはいったい何なのだと。それはひどい話です。それはなぜかというと、そのバイオの研究という行為を受け取る社会がなかったのです。本当は、研究者っていうのは、私の若い頃なんてそうなのだけれども、研究費をもらえば、どこか企業を探してきて、俺の研究をするための装置をつくってくれと。それで共同研究をやります。彼らはそれでお金をもらうのだけれども、だけど今の研究費制度はそれができなくなってしまったのですね。世界でいちばん安い測定機械でやれと、財務省が言ったのですよ。それ以来、外国の製品を買わないと研究ができなくなってしまっているのですね。その結果、日本の研究者コミュニティと産業との距離がずっと離れていくわけです。そのお蔭で研究費の非常に多くがアメリカに流れています。私はそうではないと。研究というのは産業も一緒になって、どこまでやるか、それを考えなければいけないわけですね。ですから相手がいないけれども、相手もやはりつくりながら、研究のほうに近づいてくる、例えば日本は中小企業が測定器をやればよかったのですね。中小企業は大企業の系列の中に収まっているのではなくて、もっと大学に向いて、大学と一緒に共同的に研究、新しい製品を開発する場所であればよかったのです。ところが大企業というのは、新しい製品をマーケッタブルな製品にするには、やはり規模が大きすぎるのです。測定器なんかとてもやっていられません。自動車を売っているところは測定器なんていりません。何百億円もマーケットがいるわけですから。そういうことで、マーケットの小さいところを誰がやるのかというとできなかった。それで、アメリカのベンチャーとかみんな持っていっちゃったわけです。そういう構造なのです。そこでわれわれはベンチャー、ベンチャーと言っているのだけれども、ベンチャーと言う前に、本当は膨大な中小企業群がいて、これの再生も速いのです。そういう一種の産業政策と科学研究政策というのは、やはりドッキングしなければ、今のご指摘の話がうまくいかないという点があると私は思っているのです。

(赤城) 
外国の測定器を買わないということについては、財務省をうんと言わせる理屈は割とできそうな気がするのですけれどもね。世の中にない測定器を使うと言えばいいわけですよね、ありそうだけれどもないという…。なんかある測定器を使ったほうが、研究計画ができやすいというようなことがあるのではないですか。

(吉川) 
それは、もちろん研究者にも責任があるのです。例えば社会的に定着した測定器を使ったデータは信用されるから、論文が通りやすいなんていう話もあるわけです。訳がわからない装置でやっているよりは。だけど私はたまたまイギリス人に友達が多いのだけれども、イギリス人はそういうのを嫌っている人がまだいます。既存の測定器でやった測定は、自分の研究ではないなんて言って、依然として、空に電線かなんか張って測定しているわけ。効率も悪いし、研究費も確かにもらえないのだけれども、そうやって頑張っている人がいる。残念ながら日本の研究者については、そういう人を置いておいてくれる大学というのは少ないというような、いろいろな社会的要因があります。



 
back next